P--1335 P--1336 P--1337 #1唯信鈔    唯信鈔                          安居院法印聖覚作 【1】 それ生死をはなれ仏道をならんとおもはんに、二つのみちあるべし。一 つには聖道門、二つには浄土門なり。  聖道門といふは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて、今生に証を とらんとはげむなり。いはゆる真言をおこなふともがらは、即身に大覚の位に のぼらんとおもひ、法華をつとむるたぐひは、今生に六根の証をえんとねがふ なり。まことに教の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、 現身にさとりをうること、億々の人のなかに一人もありがたし。これにより て、今の世にこの門をつとむる人は、即身の証においては、みづから退屈のこ ころをおこして、あるいははるかに慈尊(弥勒)の下生を期して、五十六億七 千万歳のあかつきの空をのぞみ、あるいはとほく後仏の出世をまちて、多生曠 劫、流転生死の夜の雲にまどへり。あるいはわづかに霊山・補陀落の霊地をね P--1338 がひ、あるいはふたたび天上・人間の小報をのぞむ。結縁まことにたふとむべ けれども、速証すでにむなしきに似たり。ねがふところなほこれ三界のうち、 のぞむところまた輪廻の報なり。なにのゆゑか、そこばくの行業慧解をめぐら してこの小報をのぞまんや。まことにこれ大聖(釈尊)を去ることとほきによ り、理ふかく、さとりすくなきがいたすところか。 【2】 二つに浄土門といふは、今生の行業を回向して、順次生に浄土に生れて、 浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機 にかなへり。まことにたくみなりとす。ただし、この門にまた二つのすぢわか れたり。一つには諸行往生、二つには念仏往生なり。 【3】 諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あ るいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の 行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあ らず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行を はげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかなら ば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる P--1339 ところなり。 【4】 二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。 これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の 願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。そもそも名号をとなふるは、 なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこり は、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。その ときに仏ましましき、世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこし て、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申 したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。 願はくは、仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」 と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人・天の善悪、国土 の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。  法蔵比丘これをききこれをみて、悪をえらびて善をとり、粗をすてて妙をね がふ。たとへば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき 世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころ P--1340 を得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたるこ とをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば、柳の枝に桜のはなを 咲かせ、二見の浦に清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期 の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく微妙厳浄の国土 をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生を みちびかんがためなり。国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大 願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、 一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべ からず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。 布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍 辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一 切の行、みなまたかくのごとし。  これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがため に、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあ ひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せ P--1341 られんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号を もつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめら れんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべから ず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。  「如来尊号甚分明 十方世界普流行   但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃) といへる、このこころか。  さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかん とのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。 名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをと なふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若 女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。  「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来   不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才   不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 P--1342   但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃) このこころか。これを念仏往生とす。 【5】 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』(易行品)のなかに、「仏道を行ずるに難行 道・易行道あり。難行道といふは、陸路をかちよりゆかんがごとし。易行道と いふは、海路に順風を得たるがごとし。難行道といふは、五濁世にありて不退 の位にかなはんとおもふなり。易行道といふは、ただ仏を信ずる因縁〔をもつ て〕のゆゑに浄土に往生するなり」といへり。難行道といふは聖道門なり、易 行道といふは浄土門なり。わたくしにいはく、浄土門に入りて諸行往生をつ とむる人は、海路にふねに乗りながら順風を得ず、櫓をおし、ちからをいれて 潮路をさかのぼり、なみまをわくるにたとふべきか。 【6】 つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。専修とい ふは、極楽をねがふこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏 の一行をつとめてまつたく余行をまじへざるなり。他の経・呪をもたもたず、 余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなへ、ひとへに弥陀一仏を念ず る、これを専修となづく。雑修といふは、念仏をむねとすといへども、また余 P--1343 の行をもならべ、他の善をもかねたるなり。この二つのなかには、専修をすぐ れたりとす。そのゆゑは、すでにひとへに極楽をねがふ、かの土の教主(阿弥 陀仏)を念ぜんほか、なにのゆゑか他事をまじへん。電光朝露のいのち、芭蕉 泡沫の身、わづかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれんと す。あにゆるく諸行をかねんや。諸仏・菩薩の結縁は、随心供仏のあしたを期 すべし、大小経典の義理は、百法明門のゆふべをまつべし。一土をねがひ一 仏を念ずるほかは、その用あるべからずといふなり。念仏の門に入りながら、 なほ余行をかねたる人は、そのこころをたづぬるに、おのおの本業を執じてす てがたくおもふなり。あるいは一乗をたもち三密を行ずる人、おのおのその行 を回向して浄土をねがはんとおもふこころをあらためず、念仏にならべてこれ をつとむるに、なにのとがかあらんとおもふなり。ただちに本願に順ぜる易行 の念仏をつとめずして、なほ本願にえらばれし諸行をならべんことのよしなき なり。これによりて善導和尚ののたまはく(礼讃)、「専を捨てて雑におもむく ものは、千のなかに一人も生れず、もし専修のものは、百に百ながら生れ、千 に千ながら生る」(意)といへり。 P--1344  「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生   故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下) といへり。随縁の雑善ときらへるは、本業を執ずるこころなり。たとへば、み やづかへをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節を尽すべ きに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた疎くとほき人にこころざしを 尽して、この人、主君にあひてよきさまにいはんことを求めんがごとし。ただ ちにつかへたらんと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地 はるかにことなるべし。 【7】 これにつきて人疑をなさく、「たとへば、人ありて、念仏の行をたてて毎 日に一万遍をとなへて、そのほかは終日にあそびくらし、よもすがらねぶりを らんと、またおなじく一万を申して、そののち経をもよみ余仏をも念ぜんと、 いづれかすぐれたるべき。『法華』に〈即往安楽〉の文あり、これをよまんに あそびたはぶれにおなじからんや。『薬師』には八菩薩の引導あり、これを念 ぜんはむなしくねぶらんに似るべからず。かれを専修とほめ、これを雑修とき らはんこと、いまだそのこころをえず」と。 P--1345  いままたこれを案ずるに、なほ専修をすぐれたりとす。そのゆゑは、もとよ り濁世の凡夫なり、ことにふれてさはりおほし。弥陀これをかがみて易行の道 ををしへたまへり。終日にあそびたはぶるるは、散乱増のものなり。よもすが らねぶるは、睡眠増のものなり。これみな煩悩の所為なり。たちがたく伏しが たし。あそびやまば念仏をとなへ、ねぶりさめば本願をおもひいづべし。専修 の行にそむかず。一万遍をとなへて、そののちに他経・他仏を持念せんは、う ちきくところたくみなれども、念仏たれか一万遍にかぎれと定めし。精進の機 ならば、終日にとなふべし。念珠をとらば、弥陀の名号をとなふべし。本尊に むかはば、弥陀の形像にむかふべし。ただちに弥陀の来迎をまつべし。なにの ゆゑか八菩薩の示路をまたん。もつぱら本願の引導をたのむべし。わづらはし く一乗の功能をかるべからず。行者の根性に上・中・下あり。上根のものは、 よもすがらひぐらし念仏を申すべし。なにのいとまにか余仏を念ぜん。ふかく これをおもふべし、みだりがはしく疑ふべからず。 【8】 つぎに念仏を申さんには、三心を具すべし。ただ名号をとなふることは、 たれの人か一念・十念の功をそなへざる。しかはあれども、往生するものはき P--1346 はめてまれなり。これすなはち三心を具せざるによりてなり。『観無量寿経』 にいはく、「具三心者必生彼国」といへり。善導の釈(礼讃)にいはく、「具此 三心必得往生也 若少一心即不得生」といへり。三心のなかに一心かけぬれ ば、生るることを得ずといふ。世のなかに弥陀の名号をとなふる人おほけれど も、往生する人のかたきは、この三心を具せざるゆゑなりとこころうべし。 【9】 その三心といふは、一つには至誠心、これすなはち真実のこころなり。 おほよそ仏道に入るには、まづまことのこころをおこすべし。そのこころまこ とならずは、そのみちすすみがたし。阿弥陀仏の、むかし菩薩の行をたて、浄 土をまうけたまひしも、ひとへにまことのこころをおこしたまひき。これによ りてかの国に生れんとおもはんも、またまことのこころをおこすべし。その真 実心といふは、不真実のこころをすて、真実のこころをあらはすべし。まこと にふかく浄土をねがふこころなきを、人にあうてはふかくねがふよしをいひ、 内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相には世をいとふよしをもてな し、外には善心あり、たふときよしをあらはして、内には不善のこころもあ り、放逸のこころもあるなり。これを虚仮のこころとなづけて、真実心にたが P--1347 へる相とす。これをひるがへして真実心をばこころえつべし。このこころをあ しくこころえたる人は、よろづのことありのままならずは、虚仮になりなんず とて、身にとりてはばかるべく、恥がましきことをも人にあらはししらせて、 かへりて放逸無慚のとがをまねかんとす。いま真実心といふは、浄土をもとめ 穢土をいとひ、仏の願を信ずること、真実のこころにてあるべしとなり。かな らずしも、恥をあらはにし、とがを示せとにはあらず。ことにより、をりにし たがひてふかく斟酌すべし。善導の釈(散善義)にいはく、「不得外現賢善 精進之相内懐虚仮」といへり。 【10】 二つに深心といふは、信心なり。まづ信心の相をしるべし。信心といふ は、ふかく人のことばをたのみて疑はざるなり。たとへば、わがためにいかに もはらぐろかるまじく、ふかくたのみたる人の、まのあたりよくよくみたらん ところををしへんに、「そのところにはやまあり、かしこにはかはあり」とい ひたらんをふかくたのみて、そのことばを信じてんのち、また人ありて、「そ れはひがことなり、やまなしかはなし」といふとも、いかにもそらごとすまじ き人のいひてしことなれば、のちに百千人のいはんことをばもちゐず、もとき P--1348 きしことをふかくたのむ、これを信心といふなり。いま釈迦の所説を信じ、弥 陀の誓願を信じてふたごころなきこと、またかくのごとくなるべし。  いまこの信心につきて二つあり。一つには、わが身は罪悪生死の凡夫、曠劫 よりこのかた、つねに沈みつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二 つには、決定してふかく、阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂取したまふことを疑 はざれば、かの願力に乗りて、さだめて往生することを得と信ずるなり。世の 人つねにいはく、「仏の願を信ぜざるにはあらざれども、わが身のほどをはか らふに、罪障のつもれることはおほく、善心のおこることはすくなし。こころ つねに散乱して一心をうることかたし。身とこしなへに懈怠にして精進なるこ となし。仏の願ふかしといふとも、いかでかこの身をむかへたまはん」と。こ のおもひまことにかしこきに似たり、驕慢をおこさず高貢のこころなし。しか はあれども、仏の不思議力を疑ふとがあり。仏いかばかりのちからましますと しりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、な ほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたら ず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡 P--1349 破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし。 「三念五念仏来迎」(法事讃・下)とのべたり。むなしく身を卑下し、こころを 怯弱にして、仏智不思議を疑ふことなかれ。  たとへば、人ありて、高き岸の下にありてのぼることあたはざらんに、ちか ら強き人、岸のうへにありて綱をおろして、この綱にとりつかせて、「われ岸の うへにひきのぼせん」といはんに、ひく人のちからを疑ひ、綱の弱からんこと をあやぶみて、手ををさめてこれをとらずは、さらに岸のうへにのぼること得 べからず。ひとへにそのことばにしたがうて、たなごころをのべてこれをとら んには、すなはちのぼることを得べし。仏力を疑ひ、願力をたのまざる人は、 菩提の岸にのぼることかたし。ただ信心の手をのべて誓願の綱をとるべし。仏 力無窮なり、罪障深重の身をおもしとせず。仏智無辺なり、散乱放逸のもの をもすつることなし。信心を要とす、そのほかをばかへりみざるなり。信心決 定しぬれば、三心おのづからそなはる。本願を信ずることまことなれば、虚仮 のこころなし。浄土まつこと疑なければ、回向のおもひあり。このゆゑに三 心ことなるに似たれども、みな信心にそなはれるなり。 P--1350 【11】 三つには回向発願心といふは、名のなかにその義きこえたり。くはしく これをのぶべからず。過現三業の善根をめぐらして、極楽に生れんと願ずるな り。 【12】 つぎに本願の文にいはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上) といへり。いまこの十念といふにつきて、人疑をなしていはく、「『法華』の 〈一念随喜〉といふは、ふかく非権非実の理に達するなり。いま十念といへる も、なにのゆゑか十返の名号とこころえん」と。この疑を釈せば、『観無量寿 経』の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの 不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめにより て、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさ らにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝 若不能念」といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量 寿仏」と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中 除八十億劫生死之罪」といへり。十 念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 P--1351 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏  十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)といへり。十 声といへるは口称の義をあらはさんとなり。 【13】 一 つぎにまた人のいはく、「臨終の念仏は功徳はなはだふかし。十念 に五逆を滅するは臨終の念仏のちからなり。尋常の念仏はこのちからありがた し」といへり。  これを案ずるに、臨終の念仏は功徳ことにすぐれたり。ただしそのこころを 得べし。もし人いのちをはらんとするときは、百苦身にあつまり、正念みだれ やすし。かのとき仏を念ぜんこと、なにのゆゑかすぐれたる功徳あるべきや。 これをおもふに、病おもく、いのちせまりて、身にあやぶみあるときには、信 心おのづからおこりやすきなり。まのあたり世の人のならひをみるに、その身 おだしきときは、医師をも陰陽師をも信ずることなけれども、病おもくなりぬ れば、これを信じて、「この治方をせば病いえなん」といへば、まことにいえ なんずるやうにおもひて、口ににがき味はひをもなめ、身にいたはしき療治を もくはふ。「もしこのまつりしたらば、いのちはのびなん」といへば、たからを P--1352 も惜しまず、ちからを尽して、これをまつりこれをいのる。これすなはち、い のちを惜しむこころふかきによりて、これをのべんといへば、ふかく信ずるこ ころあり。臨終の念仏、これになずらへてこころえつべし。いのち一刹那にせ まりて存ぜんことあるべからずとおもふには、後生のくるしみたちまちにあら はれ、あるいは火車相現し、あるいは鬼率まなこにさいぎる。いかにしてか、 このくるしみをまぬかれ、おそれをはなれんとおもふに、善知識のをしへによ りて十念の往生をきくに、深重の信心たちまちにおこり、これを疑ふこころな きなり。これすなはち、くるしみをいとふこころふかく、たのしみをねがふこ ころ切なるがゆゑに、極楽に往生すべしときくに、信心たちまちに発するな り。いのちのぶべしといふをききて、医師・陰陽師を信ずるがごとし。もしこ のこころならば、最後の刹那にいたらずとも、信心決定しなば、一称・一念の 功徳、みな臨終の念仏にひとしかるべし。 【14】 二 またつぎに世のなかの人のいはく、「たとひ弥陀の願力をたのみて 極楽に往生せんとおもへども、先世の罪業しりがたし、いかでかたやすく生る べきや。業障にしなじなあり。順後業といふは、かならずその業をつくりたる P--1353 生ならねども、後後生にも果報をひくなり。されば今生に人界の生をうけたり といふとも、悪道の業を身にそなへたらんことをしらず、かの業がつよくして 悪趣の生をひかば、浄土に生るることかたからんか」と。  この義まことにしかるべしといふとも、疑網たちがたくして、みづから妄見 をおこすなり。おほよそ業ははかりのごとし、おもきものまづ牽く。もしわが 身にそなへたらん悪趣の業ちからつよくは、人界の生をうけずしてまづ悪道に おつべきなり。すでに人界の生をうけたるにてしりぬ、たとひ悪趣の業を身に そなへたりとも、その業は人界の生をうけし五戒よりは、ちからよわしといふ ことを。もししからば、五戒をだにもなほさへず、いはんや十念の功徳をや。 五戒は有漏の業なり、念仏は無漏の功徳なり。五戒は仏の願のたすけなし、念 仏は弥陀の本願のみちびくところなり。念仏の功徳はなほし十善にもすぐれ、 すべて三界の一切の善根にもまされり。いはんや五戒の小善をや。五戒をだに もさへざる悪業なり、往生のさはりとなることあるべからず。 【15】 三 つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふ は、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す P--1354 ることを得んや」と。  これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、 宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今 生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらか にしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふこと を。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、善根すくなしといへども ふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念む しろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われ らが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへ る、まことにこのたぐひか。 【16】 四 つぎに念仏を信ずる人のいはく、「往生浄土のみちは、信心をさき とす。信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。『経』(大経・下)に すでに〈乃至一念〉と説けり。このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさね んとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とておほきに あざけりふかくそしる」と。 P--1355  まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに一念の義を たてて、みづから念仏の行をやめつ。まことにこれ魔界たよりを得て、末世の 衆生をたぶろかすなり。この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりとい ふは、その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりとい ふ、すこぶるそのことばすぎたりとす。一念をすくなしとおもひて、遍数をか さねずは往生しがたしとおもはば、まことに不信なりといふべし。往生の業は 一念にたれりといへども、いたづらにあかし、いたづらにくらすに、いよいよ 功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、これをとなへば、終日にとなへ、 よもすがらとなふとも、いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。善導 和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。これを不信の人 とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、またしかるべからず。一念といへる は、すでに『経』(大経・下)の文なり。これを信ぜずは、仏語を信ぜざるな り。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなく申すべきな り。これ正義とすべし。念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかく のごとし。 P--1356 【17】 これをみん人、さだめてあざけりをなさんか。しかれども、信・謗とも に因として、みなまさに浄土に生るべし。今生ゆめのうちのちぎりをしるべと して、来世さとりのまへの縁をむすばんとなり。われおくれば人にみちびか れ、われさきだたば人をみちびかん。生々に善友となりてたがひに仏道を修 せしめ、世々に知識としてともに迷執をたたん。  本師釈迦尊 悲母弥陀仏  左辺観世音 右辺大勢至  清浄大海衆 法界三宝海  証明一心念 哀愍共聴許  [草本にいはく、「承久三歳仲秋中旬第四日、安居院の法印聖覚の作る」と。   寛喜二歳仲夏下旬第五日、かの草本真筆をもつて愚禿釈親鸞これを書写す。]